December 13, 2005
ふたつの墓 (爆発と浄化)
*「先週末は立教大学ラテンアメリカ研究所公開講演会を聞きに行きました。昨年も同講演会に参加したのですが、昨年の演題は「“黒い”サウンドとは?~アメリカポピュラー音楽を分析する~」ということで、講師の方の真っ黒なiTunesプレイリストや、黒いサウンドにのってのエアギターなどが素晴らしい講演会だった事を記憶しています。
今年の演題は前半が「環大西洋文化ネットワークの形成―スペイン内戦とメキシコ、その他の国々―」、後半が「イサム・ノグチ、岡本太郎とメキシコ」でした。前半は内戦によって大西洋を渡ったスペインの芸術家達の、物理的移動による新たな文化・思想の発生を、数々の文献を参考に現象として捉えるという講演。後半は、岡本太郎とイサムノグチの両名をメキシコという外国を媒介として重ね合わせるという試み。特に後半部で印象的だったのが、二人のお墓についてです。
まず、両者とも"古代人の目"を持つという共通点が挙げられていました。太郎は縄文の趣味があるし、イサムもモエレ沼公園のピラミッドなど、確かに何か原始の神秘的な力を大切に感じていたという趣向は一致しています。その対比で僕が面白いと思ったのは、同じ古代でも太郎は曲線が絡み合うようなグロテスクなうねりに惹かれていたのに対し、イサムは直線的な・地上絵に象徴される緻密で計算されたような洗練の美しさに共鳴しているという感じがすることです。イサムのUFO趣味という小ネタもなんとも興味深い事実として浮かび上がってきます。
また、「イサムの鳥瞰に対する太郎の跳躍・飛翔」という対比にも大変納得しました。スライドに映し出されたいくつかのイサムの作品には神視点というか、見下ろしている感覚をおぼえるものがあり、対し太郎の作品は一番有名な太陽の塔が全くそうであるように大地から上方へ向かっているものが多い。2003年にメキシコシティの郊外で発見された巨大壁画『明日の神話』について、原水爆に対する怒り・憤りをあらわしているが、それは単純なメッセージ・悲惨さの表現では無く、太郎にとってポジティブな色である“赤”と、メキシコに於いては同じくポジティブな意味合いで捉えられる骸骨を配する事で、原水爆のネガティブな力から更に新たなパワーを産み出すという太郎らしい超越の表現を見出す事ができます。一方、ゴミの埋立地であったモエレ沼に美しい新たな公園を設計したイサムは、「浄化」の方向であったという意向がとれ、ちょうど今の日本人の感覚にフィットしているような気がしました。
そして、二人のお墓について。イサムノグチ庭園美術館にあるイサムの墓は草に埋もれていて、丁度地球に栓をしたような形のものでした。正に鳥瞰と真逆。神視点から降りてきて最後はそっと地球の中に潜っていってしまったイメージで、なんとも彼の美学に沿っているような愛らしいお墓です。岡本太郎の墓は多摩霊園にあり、墓碑はブロンズ彫刻「午後の日(1967)」です。ある人は気味が悪いと言ったそうですが、故岡本敏子さんは「かわいい」とおっしゃったそうです(リンク先写真参照)確かに「かわいい」。地上から天上へ向かって跳躍を繰り返した太郎は、今は地上で頬に手をつき、上方に向かって跳躍を続ける後続たちを見守っているようなイメージがしました。お墓に行けば、『今日の芸術』の序文にあるように「私はここで、あなたと直接に、膝をまじえて語りあうような、らくな気分で話を」してくれそうな気がします。「反対の意見があれば、どんどん、ぶっつけてきてください。そして明朗に、積極的に、お互いの力でこれらの文化をもりたてていきましょう。」よし、今度ぶっつけにいってみよう、という気にさせられる、良い墓だと思います。いつか行ってみよう。▼
Posted by Takuya Endo at December 13, 2005 02:20 AM | TrackBack「明日の神話」って愛媛で修復してるんですよね。
僕の絵の先生も先日の修復完了間近の(?)式典に参加したと思います。
「貰い手が無い」と嘆いてました。
広島も「いらない」って云ってるみたいだし…。
メキシコからの運搬費も、
足りなかったのかどうかはわかりませんが
イトイ新聞が寄付してましたねえ。
「貰い手」かあ。。。
個人だったらいくらでも立候補してくるんだろうなあ。











